Tags: 空海の風景

室戸(11日目の2)

In : 11日目, 修行の道場, Posted by 田原笠山 on 2008/10/29

かれが室戸の先端にせまり、ついに最御崎の岩盤に立ったときには、もはや天空にいる思いがしたであろう。(…)この巌頭に立てば風は岩肌をえぐるようにして吹き、それからのがれるためには後方の亜熱帯性の樹林の中に入りこみ、樹々にすがり、岩陰に身を隠さねばならない。やがて空海は風雨から身をまもるための洞窟を発見するにいたった。(…)空海がこの洞窟をみつけたとき、「何者かが、自分を手厚くもてないしている」という実感があったのではないか。

(「空海の風景」司馬遼太郎著 中央公論新社より引用)

その室戸にはもうすぐだった。穏やかな天気だった。その洞窟、御厨人窟で修行した当時の弘法大師空海の青年像が見えた。高さ10メートル以上はあるだろう白いその像は「鉄さび色の大岩盤」を背景に浮き上がっていた。

ボクは、久しぶりの室戸を懐かしく感じていた。記憶は正確にボクの脳の中に収まっていたし、その場所は容易に特定することが出来た。そして重ね合わせた。御厨人窟の中で納経をした。早朝の聖地にボクひとりだった。洞窟の中にはボクの声が響いた。

感動、何に対してなのか、ということは、その瞬間には分からなかったのだけれど、涙が流れた。睡眠不足や疲労は感情を涙にかえることで、慰められるのかもしれない。四国を歩いている間、常に感情はギリギリのところまで張り詰めていたし、それは肉体とて同じことで、平衡感覚を保つために、緊張を強いられているようにも思った。そしてその糸は切れないまでも、かなり高い音程で脊髄から脳に刺激を与えているように感じていた。

ボクは御厨人窟を出て、そして海岸線にある遊歩道を進んだ。その頃、弘法大師空海の頃と今とは、ほとんど変化がないのだろうと思った。四国にはそういう場所が多いと思う。変化がない場所が普通に存在する。そのことがボクたちを感動させるのだろう。

最御崎寺への山道を登った。登り初めてすぐに「ホテルなはり」の割引券が置いてあった。「お遍路さん、500円割引き。素泊まり3500円」1枚いただいた。最後が、というか、四国に来て最初に泊まったのが10月22日の徳島だったので、ずいぶん長い間布団に寝てないように感じていた。それよりも充電したかった。洗濯もしたかった。寝袋やテントを干したかった。体勢を整えたかった。疲れていた。

その割引券を大事にザックにしまった。「ホテルなはり」が身体を軽くした。「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経」と般若心経のこの部分を唱えながら登った。「行こう、行こう、さあ行こう。みんなで行こう。幸せの世界へ、さあ行きましょう!」(「般若心経といろは歌」山田法胤著 PHP出版)という意味だ。お経は音楽に近い。詩というリズムを持っている。「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか」と書くと、分かると思うのだけれど。

24番札所最御崎寺に着いた。8時だった。

室戸の朝とボク



土佐は鬼国に候(10日目の3)

In : 10日目, 修行の道場, Posted by 田原笠山 on 2008/10/28

「虚空蔵求聞持法」という秘法がある。19歳の弘法大師空海は、故郷である四国に渡り室戸の洞窟、御厨人窟を行場として修法した。「虚空蔵求聞持法」とは虚空蔵菩薩の真言

言語の一種であるにちがいない。しかし、人間の言語ではなく、原理化された存在(法身如来)たちのしゃべる言語である。

その「なうぼう あきやしや きやらばや おん ありきや まりぼや そわか」という翻訳されない仏の言葉を、100万遍ある一定の期間(50日から100 日の間と言われているようですが)唱える、ということで(ただ唱えるだけではなくて、その他に諸々の決まりがありようです)万巻の経典をたちまち暗誦できるようになるという秘法、空海はそれを室戸で経験した。

第12番札所・焼山寺のご本尊は虚空蔵菩薩。遍路の旅ではそこでその真言を唱えることになる。少しだけ、例えば100万分の1ほど、何かに近づける瞬間なのかもしれない、そしてその思考が感動を呼ぶのかもしれないと思った。あのへんろ転がしと言われる山越えの後では特に、涙が溢れる人も多いのだろうと思った。

人は生きている目的を探し求める。そしてすがろうとする。

室戸までの道のりは、日和佐あたり、あるいは牟岐あたりから変化してゆく。そして野根を過ぎたあたり、前回のエントリーに書いた「自販機のない10㎞の道のり」で、劇的に変わる、ように感じた。それはただ何もないということではなくて、「地の果て」という表現がピッタリと当てはまるように感じた。

札所がすでにここで絶えている。そのことは空海が人里で疲れを癒した最後は日和佐の浜だったのではないか、ということであり……

というのがその時の空海の室戸までの道のりだったのだろうし

牟岐からむこうで、頻繁に小入江が連続している。海浜の崖や山をよじ登っては、小さな入江にすべり落ちてゆく。浜の名と浜の名を挙げると、大坂降りると内妻の浜である。(中略)この連鎖してゆく小さな入江ごとに何人かの人間が住んでいたかもしれないが、しかしこんにちでも浜におりるとなお無人にちかい。この入江群の沖はすでに外洋であり、その風濤のたけだけしさが、人の住まうことを拒絶しているのであろう。空海はときに無人の浜に出て海藻や貝をひろったにちがいない

その当時の風景は、今もボクたちの眼前に横たわり、そして文明をもってその力で押さえつけたとしても「へんろ転がし」ということには違わない。行が待ち受ける。

宍喰・野根からむこうは、いまでこそ海岸を道路が通っているが、当然ながら空海のころには道路がなく、二十五キロにわたる海岸は断崖の連続であり、激浪が黒い地の骨を洗ってとどろきつづけていた。また海岸道路をすすんでさえ、前方に折りかさなる断崖群が靉気のなかに濃淡をかさねつつ、このさきはすでに地の涯であろうというそらおそろしさを感じさせる。

という感覚を誰もが持つのだろうと思う。歩き遍路にあっては、その激浪からの飛沫や音が全きの恐怖となって足を速めるのだろうと思う。夕方、あるいは夜となっては、妖気をも漂わせているように感じた。

それが室戸への道なのだろう。
高知は修行者空海にとっても、そして遍路にとっても、修行の地なのだろうと思う。鬼は時として己の心に棲んでいては、責め続ける。

永遠とも思われる道で、多くの遍路は内省を繰り返す。それはまたほとんどの場合責苦という苦行の形をとる。それでも止まることよりも、先へ進もうとする。まるで人生のようなもの、のように思っていた。

ボクは歩いていた。もう室戸はそこに見えていた。

室戸 夫婦岩
同石ふたつ…。
夫婦岩が見える。

(参考文献、および引用)
司馬遼太郎著「空海の風景」中央公論新社