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ユリさんの死(5日目の2)

In : 5日目, 発心の地, Posted by 田原笠山 on 2008/10/23

ボクは地蔵院前の公園のベンチで南の空を見ていた。陰雲は相変わらず時間をも隠蔽していた。時は流れていた。ボクはそこにいて、そして流れているだろう時に抗っていた。

日記にこう書いている。

『十数年ぶりに逢えると思っていた。ボクはユリさんと100キロメートル少しの距離の所で雨宿りをしていた。

またボクの好きな人がこの世からいなくなった。

メールが届く。
ボクが四国に来る前にユリさんに出したハガキの返事が、ユリさんのお兄さんから届いたという。

十数年ぶりの約束はあと100キロと少しのところでとうとう果たせないことになった。ボクは地蔵院の池の畔のベンチに座っていて、半分朽ちかけた身体を、例えばシュラフに押し込んで13:00の小雨降るベンチでそのまま眠ろうと思っていた。

ユリさんは4月に亡くなっていた。

最後の2か月は緩和ケアで、死を待つ日々を過ごしたという。そのまた2か月前のクリスマスカードにはボクがユリさんにプレゼントした花かごを20年も過ぎた今も大事にしているということを書いていた。

そのことを書くのがいつものユリさんだった。

この十数年間、何度も逢える機会はあったのだけれど…。ボクも何度か四国に来ていたし、高知にも宿泊したことがあった。

でも逢えないでいた。そうして逢える日がやっと訪れたと思ったら…。

なんと運命のかなしいことか、なんと惨たらしいことか。

そんなことを考えながら、ボクは空を見ていた。もう少しで、例えば車だと2時間もあればユリさんの住んでいた街にたどりつける位置にいる。「永遠」ということを考えていた。そこを通過したとしても時間も距離も、もう変化はしない。永遠、あるいは、不変。

人は死ぬ。そこで時間は停まってしまう。

今回の四国遍路、ユリさんに会うのが楽しみで、そしてそれを目標にもしていた。それがユリさんの墓参りに変わってしまった。ユリさんがボクを四国へ呼び寄せたのかもしれないと思っていた。ボクは歩かなければならなかった。』

ボクは、歩かなければならなかった。ユリさんに逢いに行こうと思った。

14時少し前に、ボクは歩き始めた。地蔵峠を越えて恩山寺を目指した。まだ雨は降っていた。足は相変わらず痛かった。峠の道は急登だった。苦しかった。

でも、緩和ケアでのユリさんの苦しみを想像したら、それはなんでもないことのように思えた。峠を越える間中、涙は流れていた。

地蔵峠の地蔵

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時雨て霞む徳島の街(4日目の2)

In : 4日目, 発心の地, Posted by 田原笠山 on 2008/10/22

住むだけ、あるいは遍路として四国に滞在するだけならば、四国は優しく包容力のある場所だと思う。一笠一杖の旅姿さえしていれば、お遍路さんとして公認される。そして無料の宿泊施設や野宿場所やお接待という待遇を受けることができる。旅ということに何かを求めるとしたら、四国は生温い気もする、そのことを前のエントリーに書いた。

歩くことが遍路である、としたら、歩くことはつらい。毎日30キロも40キロも歩くということは悲しいほどつらかった。そして野宿ということがさらにその距離を長くした。たとえ四国が優しく包容力のある場所だとしても、いとも簡単にねぐらが見つかる、ということはなかったし、都市化した街ではさらにそのことを難しくした。そして何よりボクはまだ「善根宿」や「通夜堂」と言った無料の、あるいは低額の宿泊施設の存在を知らなかった。

鬼籠野へ歩いていた。空は雨を予感させていた。山あいの道は寂しかった。車とすれ違うことがとても不自然に思われる程の佇まいだった。辺境、言い方は悪いかもしれないが、ボクにはそう感じた。30分で徳島市内へ行けるほどの距離だとしても、ボクにとっては半日がかりの辺境であることには変わりはなかった。

ボクは鬼籠野を過ぎてオーロ喜来で道に迷った。ちょうど工事中だったことがボクの感を鈍らしたと思う。地図を確認しなかった。コンパスを出さなかった。へんろマークはあった。広野ではなくて一の坂越えの道、県道207号を歩いていた。

そしてそこから県立神山森林公園を通るはずだったのだけれど、大桜トンネルの手前の交差点でも直進してしまっていた。トンネル直前でその間違いに気付いたのだけれど、ボクにはその1キロに満たない距離を戻ることがムダのように思えた。そのままトンネルを抜けた。3つの選択が鬼籠野ではあった。そして選ぶ余裕もなく、そちらへ誘われたように進んだ。地図には「甲、乙、丙」という案内があって、その道は「丙」だった。その意味は分からないのだけれど、きっと「3番目の選択」という意味なのかもしれない、と考えていた。少しだけ後悔もした。いつものように。

その辺境の道は長く感じた。結局、南丁赤坂のへんろ道への左折場所も見過ごしてしまって、一宮の駐在署のある信号交差点まであるいてそこから左折して(ようするに打ち戻ることになったのだ)大日寺に着いた。雨が降り始めていた。「山中で降られなくて吉」と日記にメモしている。道の駅を7時に出て12時20 分に着いたのだから約5時間、ほとんど休まずに歩いたことになる。

大日寺を打って、常楽寺へ向かう途中一の宮橋の手前で雨脚が強くなる。ザックカバーを着けた。「キツイ」という文字が日記の中に目立つ。大桜トンネル越え、いや、昨日の焼山寺への山越えと下り、そして今日の山越えが、足にきていたのだろう。確かにきつかった。

常楽寺で雨の止むのを待った。14時20分発。雨は降っていたけれど、空の色は回復に向かうように思えた。歩いた。国分寺、観音寺で16時、井戸寺まで2 キロ。足は悲鳴をあげていた。ボクも時折声をあげた。「南無大師金剛遍照…」そして「このやろ~」と。もうどこでも良いから泊りたい、と思っていた。

井戸寺を打ち終えたのが16時50分だった。逆打ちでまわれれている人に「徳島市内なら送って行きますよ」と声をかけて頂いた。「ありがとうございます。歩いていますので…」と断った。本当は乗せてもらいたかった。「良いじゃないか、それぐらい」と思った。きっとそのおじさんも、思ったのだろう。こだわる理由はなんなのだろうと、そして何になるのか、と考えていた。

雨は止んでいたけれど、湿気を吸った雲が高度を下げていたし、もうそのまま落ちてくるのではないのかと不安に感じた。まだ降るのだろうと思った。

ボクは、ホテルに泊まることにした。「今日は風呂に入る。充電もする。そして寝る」と決めていた。徳島市内のビルの明りが、その欲望の光が、ボクを誘っていたし、雨の不安の中でのねぐら探しがきつかった。どこでも良かったのだけれど、温もりや安心というもの、文明に慰撫されたかったのだ。ボクはホテルを目指した。そう決めると、心も体も少し軽くなったように感じた。

朝食に前日買った赤飯オニギリとポリッピー、昼食にふんわりロールパンと柿の種を食べただけの胃は限界を訴えていた。

うしろすがたのしぐれてゆくか

山頭火48歳の時の句を口に出していた。なんのために人は歩き続けるのか、ボクは歩き続けるのか、と思っていた。いったい、この苦しみはなんに繋がるのかと考えていた。「神山、鬼門やで~」ではなくて、毎日が鬼門のようにも感じた。

十五番札所国分寺にて

十五番札所国分寺にて