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西岡善根宿(13日目の3)

In : 13日目, 修行の道場, Posted by 田原笠山 on 2008/10/31

歩いていた。
14時、坂本龍馬記念館近くの休憩所着。少し休憩。14時40分、大日寺に着く。雨が少し強くなったのでザックカバーを着ける。レインジャケットを羽織って、納経。その後、雨宿り。少し小降りになったところで出発。15時30分だった。

雨雲が気持ちまでも暗くしていた。雨が降ると眠る場所を探すのも難しくなる。雨の中で幕営したとしても、濡れた荷物や服、身体を乾かすことも出来ないで、ただ寝袋に収まって寒さに震える夜を思うと、どこでも良いから屋根のある場所で眠りたいと誰しも思うだろう。寒さよりも雨のほうが厄介だと思う。しみ込んでしまう雨は、まるで過去の想い出のように、振り払うこともできないで、一晩中テントの中でヌルヌルとまとわりつく。

コスモス畑 土佐山田市松本あたりで

コスモス畑 土佐山田市松本あたりで


16時40分、松本大師堂にて休憩。西岡善根宿の案内が置いてあった。「一泊300円。3人~4人まで泊まれます。必ず事前に連絡して下さい」と電話番号が載っていた。ボクは、その松本大師堂に泊まろうかと思っていたのだけれど、その「宿」に「300円」を見てしまっては、1時間ほどなら歩いてでも、なんて考えてしまった。そして電話をした。

大師堂から遠くはなかった。17時10分西岡善根宿着。墓地の前。先客あり。「こんにちは」とボクはその先客に挨拶をした。初老の遍路は「ああ、こんにちは」と言った。「泊まるの?」と聞いてきたので、「はい、泊めていただきます」と言った。

宿と言っても、墓地の管理小屋みたいになっていて、畳2枚分の座敷、それが2人分のベッドになっている。縦に並べられた畳を板で区切っているだけの空間。そしてソファがあって、そこもベッドとして利用されるようだった。

ボクは、荷物の整理をして、寝袋を出した。下半身だけをその中に入れた。
「何日目?」
「13日目です」とボクは答えた。
「早いね」
「そうですか。だいたいここまでだと何日ぐらいですかねえ」
「そんなもんだろ」
「長いのですか」
「まあ、長いね」
「今日はどこからですか」
「ここから」と、そのプロ遍路は答えた。そして裏の水道で米を研ぎ、それをコンロにかけた。「え?」とボク。「朝ここを出発して、ここに戻ってきた」。なるほどそういうことなのか、と思った。

ボクも夕食を食べた。昼間にいただいた芋天、ピーナッツ、カロリーメイトがその日のメニューだった。大日寺からここまでの遍路道にはコンビニがなかったから、非常食を食べることになった。

しばらくしてその遍路宿のオーナーさんが来られた。「今日もお世話になります」とプロ遍路は言った。「こんにちは、お世話になります」とボクもそのあとに言った。オーナーとプロ遍路が少し話していた。内容は「最近の遍路のマナー」。ゴミの問題とか、挨拶の問題とかを、話していた。

ボクは、聞くだけで、そしてたまに頷くだけで、「どこから」と聞かれるまで、黙っていた。それから少しボクの旅の様子なんかを話した。

「お金は今払っときましょうか」とプロ遍路が言った。
「あすこの賽銭箱に入れて置いてくれたらいいよ」
「今朝入れたのはありましたか」
「あったよ、じゃあ、帰るからね」とオーナーは出て行った。

ご飯の炊けた匂いがした。どんなものを食べているのか気にはなったけれど、聞かなかった。ボクは身体を横たえて、日記をつけていた。もう眠くなっていたし、どうも苦手なタイプだった。なにか嫌な感じもしていた。

西岡善根宿

西岡善根宿



日和佐にて(8日目の3)

In : 8日目, 発心の地, Posted by 田原笠山 on 2008/10/26

遍路とは歩くことなのだろう。そして迷うことなのだろう。探し求めて苦しみ、その先にある暗闇にすがる。夜は来る。そして朝も来る。

雨は止んでいた。23番札所薬王寺で「発心の道場」徳島県の23札所を打ち終わり、長い室戸行きが待っていた。ひとつの節目。よく分からないまま200キロほどを歩いてきた。そして迷ってきた。何かが見えてきた、とか、何かが分かった、なんてことはなかったし、ただただ前へ先へと足を繰り返し動かすような日々だった。そのことは、例えば、ライン作業のように感じた。繰り返されることの苦しみや痛み、それを思っていた。

薬王寺には14時に着いた。長い停滞や田井ノ浜でのシャワーが到着を遅くした。中途半端な時間だった。薬王寺近くには宿泊施設が多かった。素泊まり 2500円の宿、善根宿や道の駅もあり「発心の道場」最後の札所、これから向かう「修行の道場」へのさながらターミナルのように感じた。そこでこれから始まる長い旅路への準備、あるいは、傷を癒合させる聖地のようにも感じていた。

14時30分。また迷っていたし、決められないでいた。空腹感、飢えという感覚がボクを前に進める。サンクス日和佐店に入った。非常食も底をついていた。買い物をしたボクは反対側にある道の駅に渡った。日曜日の道の駅は混雑していた。そのことがボクを前へ進めた。少し行くと「どさんこラーメン」があった。ボクはそこでも少し迷ったのだけれど、そして少し通り過ぎたのだけれど、戻って店内に入った。

カルビ丼セット650円を注文した。その店の男の子はボクのその姿を見て、少し戸惑ったようであった。押し込められた思いが、その目の奥に好奇心となって凝縮されているように感じた。ボクも、戸惑っていたし、沈黙していた。注文したものが早く来ることだけを考えていた。

カルビ丼セットは、ボクが想像したとおりだった。その味やその量、温もりにおいて。そのことがボクを安心させたのだけれど、子供の好奇心はどうすることもできなかった。ボクは満腹になって、そして店を出た。室戸へ向かった。

薬王寺にて
線香の香りは人の脳を刺激する作用があるのだろう。帰った後も部屋で線香を焚く。(薬王寺にて)



善根宿(6日目の2)

In : 6日目, 発心の地, Posted by 田原笠山 on 2008/10/24

善根宿、「ぜんこんやど」「ぜごんやど」と言われる遍路に対しての宿泊所接待。無料、あるいは300円や500円という無料同然の宿。

善根宿

善根とは,本来,仏教語である。サンスクリットではクシャラームーラにあたる。「善根を施す」といった表現は,なんらかの行為が根となって善を生ずるという意味である。善根宿とは上記のことばの意味を踏まえて,わが国では,民衆が遊行中の修行僧などに一夜の宿を無償で提供することを意味した。

また「無財七施の修行」という、お金がなくても誰でもできる行い中に「房舎施」というのがあって「自分の家を一夜の宿に貸すこと。空部屋が無くて断わられた後続の遍路に相部屋をすすめる」(「四国遍路ひとりあるき同行二人 解説編」より引用)ということから、宿を貸すということも修行のひとつとされてきたのだろう。

現在では一夜の宿に自分たちの住居を施すということ(民泊)は稀になり、善根宿として作られた施設のことを意味しているよう思う。家の離れを善根宿として接待しても、隣の部屋に見ず知らずの人を宿泊させるということは、四国を歩いて巡礼するよりも難しいことのように、ボクは思った。

四国を歩いていると、その存在を知らなかったとしても、どこかでそういった宿に巡り合うのだろうし、ボクも実は知らなくて、6日目に初めて教えてもらった。

ネットで調べれば、その数の多いことに、こうして帰ってから気が付いた。のだけれど、あまりそういった情報を仕入れて遍路に出たわけではなかったし、そうすることが遍路ということを楽にしてしまいそうにも感じたので、情報収集はあえて避けたのだけれど。ガイドブックはへんろみち保存協会が出している地図と解説だけだった。

その地図には善根宿は記されていなかった。それはきっと「初めからそういうものに頼っては、あるいはすがっては、何のための遍路か」ということなのだろうと思う。ボクはへんろみち保存協会の良心だと思うし、全て教えることが親切な行いでもないように考えている。不便であればあるほど四国遍路はその意味を深遠なものにするのだろうと思っている。

その善根宿の存在と、「四国霊場八十八ケ所歩き遍路さんの無料宿泊所一覧表」という70ケ所ほどの場所が掲載されているリストがあることを、教えていただいたおじさんとの出会いは、その日にたどり着いた勝浦町のヘンロ小屋でだった。

ボクはもうそのヘンロ小屋に泊まることを14時には決めていた。そしてその敷地内にある公衆トイレでTシャツと靴下を洗濯していた。何もすることなく、通り過ぎる車の流れを見ていた。快晴。その時間にヘンロ小屋にいること、そのことへの罪悪感みたいなものもあった。学校をさぼった日の午後の想い出、そのときの感覚が蘇っていた。

「遍路とは歩くことなり」そのことを考えていた。「でも、ま、明日からへんろ転がしだし、転がされないようにするのも遍路なり」なんてことも考えていた。「歩いて遍路寝て遍路・・・」・・・・・・「うしろすがたのぐれてゆくか」なんて日記に書いて笑っていた。

柳水庵の地蔵