Archive for 11月, 2008

ウェアリング(服装)

In : 装備と携行品, Posted by 田原笠山 on 2008/11/01

何を着ていくか、と迷う人も多いのでしょうね。季節によって違うのだろうけれど、基本は軽くて乾きやすい素材になると思います。特に野宿旅においては洗濯が手洗いになり、しっかり脱水できないので、いつまでも乾かないという状況になります。特に冬場には乾きにくいし、半乾きのまま着るということも、夏場には問題ないとしても、冬場には病気の原因ともなりかねないので、特に必要だと考えます。

軽量で収納性の高いものは、長時間の行動において身体に負担にならないし、ザックの中に入れたとしても場所をとらないし、重量も抑えられるのでそのまま身体への負荷が減るということになると思いますから。

アウトドア・登山用のものを選ぶと間違いがないと思います。ユニクロのドライ製品やヒートテック商品、フリースもコストパフォーマンスに優れているのだけれど、比較するとその収納性や裁縫が違っていて、例えばショルダーハーネスが当たる部分には縫い目を避けるとか、ポケットの位置がザックを背負ったままの使用に便利に出来ているとか、それなりの工夫が施されていて、ストレスが少なく使いやすいと思います。

それでも高所登山や冬山登山をするのではないので、ユニクロ製品でも十分に対応できると思うのですが。(ユニクロを例にしましたが、トップバリュー製品でもいいのですが)

そのウェアをどう着るか、いわゆるウェアリングは、レイヤード(重ね着)が基本となります。(1)インナー(アンダー、ベース)(2)ミドラ-(3)アウター、の3枚のレイヤードを考えます。

今回の遍路旅は10月中旬から12月上旬までの日程で、気温は25度~0度(想定はマイナス5度)だったので、冬の装備をして行きました。気温25度というのは半袖Tシャツでも汗をかく温度で、11月中旬までは(おおよそ旅の半分は)半袖Tシャツを着て上に白衣という野が基本でした。朝晩冷え込むときは、 Tシャツの上に薄手のフリース、あるいはTシャツのかわりに、長袖シャツでした。

下の写真がボクが使用した服装です。
ウェアリング(服装)

このパターンを着たり脱いだりしながら、気温に対応していきました。アウターには雨具と兼用のものを持って行きました。雨具とアウターシェルを別々に持って行くと、それだけ荷物がふえますからね。
(1)モンベル・ジオライン M.W.ハイネックシャツ
(2)TFN・Micromattique Select Jacket
(3)TFN・Dot Shot Jacket

パンツは
(1)ユニクロ・ドライボクサーブリーフ
(2)モンベル・ジオライン M.W.タイツ
(3)モンベル・トレッキングパンツ(正式名称は忘れましたけれど)

それに靴下はウォーキング用のものです。

これにダウンジャケット(TNF・Aconcagua Jacket)を加えることによって、寒冷時に備えました。久万高原では14時の時点で0度、その後降雪、積雪のあった朝をバス停で迎えたのですが、このウェアリングで寒いということもありませんでした。
ウェアリング(服装)

多めに携行すれば安心するのでしょうが、その分荷物になりますよね。特に冬場はセーターやフリースといった嵩張るものを持ちすぎると、ザックが一サイズ大きめのものになり、その分動きにくくなりますからね。

ハイスペックな物をコンパクトに持つ、ということが、秋から冬にかけての歩き遍路の装備に求められると考えています。しかし前にも書いたのですが、軽量化や高機能化はそのまま価格に比例しますから、「予算内で」となると、ユニクロのヒートテック商品やフリース、プレミアムダウン商品で揃えるのも良いかもしれませんね。

普通、行動時は暑く感じますが、問題は止まっている時、あるいは寝る時の体温の確保ですから、ウェア以上にシュラフを軽量でハイスペックな物にする必要もあるのですけれど、シュラフの話はまたあらためてしたいと思います。



遍路道のすがた(14日目の1)

In : 14日目, 修行の道場, Posted by 田原笠山 on 2008/11/01

7時30分29番札所国分寺着。朝のお寺は静かだった。
納経をすませて山門へ向かおうとしていると、高知工科大学の生徒に呼び止められた。そしてGPSを渡される。次の善楽寺まで持って歩いてほしいとのことだった。了解して、そのGPSをザックに入れた。そして出発。8時を少し過ぎていた。

途中蒲原へんろ小屋で休憩。ピーナッツを食べる。お腹が空いていた。そう言えば昨日の朝におにぎりを食べてから、米を食べていなかった。「シャリバテ」という言葉があるけれど、そういう状態なのかと思った。しかし、国分寺から善楽寺までの遍路道にはコンビニも食堂もなかった。途中蒲原へんろ小屋の手前にスーパーがあったのだけれど、まだ開店前だった。遍路道から少し離れると、何軒かコンビニがあったのだけれど、その「少し」が徒歩だと20分とか30分になってくる。車だと数十キロを移動できる距離なのだけれど。

善楽寺に着いたのは10時少し前だった。蒲原から逢坂峠は長く感じた。

善楽寺は土佐神社の中にある。と言ったほうが良いような配置だったし、寺の山門を出ると神社の参道だし、遍路道もその参道を通り鳥居をくぐらなければならなかった。

日本の宗教は複雑だ。この善楽寺も土佐神社の別当寺として建立された。「別当寺とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺のこと」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)で、神仏習合が明治政府によって禁止された神仏分離令によって禁止されるまでは神と仏は調和融合していたのだから、この土佐神社と善楽寺のような位置関係も多く存在している。

神社の中を通るとしても、その神社に参拝しない遍路も多いのではないかと思う。ボクもそのひとりだったし、それは完全な仏教徒だからとか、あるいは遍路という立場だから、なんてことではないのだけれど。少しの違和感はあった。それは神社の中を通る時だけではなくて、例えば遍路姿でファミレスで食事をする時も感じたのだけれど、自分の立場、宗教的な立場という意識のものなのだろうと思ったのだけれど…。

善楽寺では高知工科大学の先生と生徒数人が待っていた。GPS渡す。そしてそのデータを元にアンケートに答えた。分かりにくかったポイントや、遍路道の状況、あるいは改善すべきこと、なんてことを答えた。

遍路道は、どうなんだろう、今はいろいろな標識があって、地図がなくても巡拝できるかもしれない。そうしている人にも現にいるのだけれど。そうした便利さは、逆に「進路を住民や道人に尋ね、その情けにすがりながら札所を巡るのが本来の姿」(へんろみち保存協会)を失うことにもなりはしないかと思った。そしてそのことを話した。

遍路ナビなんてものが出来て、最短距離で巡礼できるようになるのかもしれない。今もすでに、地図が精密詳細になって、携帯電話でのナビを利用している人もいるのだけれど。

今後、どう発展させるのだろうか。あるいは発展させないで、どこかの時点での風景を保存するのだろうか、と思っていた。空海の頃よりは随分と変わってしまったのだろうが、あるいはほとんど変わっていないところもあるのだろうが、歩きやすさばかりを求めると、遍路ということじたいを変えてしまうのではないかと思っている。

ボクは、この先、高知市内で道に迷い、そして情けにすがって、ユリさんの実家に辿りつくことになるのだけれど…。

二十九番札所国分寺にて

二十九番札所国分寺にて



地図がない(14日目の2)

In : 14日目, 修行の道場, Posted by 田原笠山 on 2008/11/01

10時30分に三十番札所善楽寺を出発した。
JRとさいっく駅を過ぎ、県道44号線下の瀬大橋を渡る。サンピアン高知が見える頃になると都会という感じがした。高知市内が近いことは分かっていた。標識も市内まであと少しということを知らせていた。

善楽寺にて 地蔵ぬいぐるみ

善楽寺にて 地蔵ぬいぐるみ


近いと分かっていたのだけれど、ボクが立っている位置と高知駅、そしてユリさんの家までの関係が分からなかった。へんろみち保存協会発行の地図には高知駅周辺が記載されていなかった。善楽寺~竹林寺~禅師峰寺(ぜんじぶじ)~雪渓寺という遍路道、その周辺しか載っていなかった。

前日、ボクはホッチキスに「どのルートが良いか調べて」とメールをした。ホッチキスからは「禅師峰寺からは○○キロ、竹林寺からは○○キロ、高知駅からは○○キロ、雪渓寺へは○○キロ」という内容で、地図の画像が添付して返信があった。ボクにはどうもピンと来なかった。

ボクは「夕方行くのが良いかなあ」なんてことを考えていて、そうなると「竹林寺を打ち終わってから、高知市内に戻るルートが良いかなあ」という計画を漠然と立てていた。そして竹林寺往復~禅師峰寺~雪渓寺というコースを選択していた。

ユリさんがお酒が強い人だったので、それに高知ということもあって、きっとお酒を勧められるだろうから、夕方行って高知市内に泊まるか、ユリさんちにそのまま、なんてさもしい考えを持っていたのだ。そう言う考えがあったもので、最短距離というよりも、ユリさんちに夕方、という選択をしていた。

2つのルートをホッチキスは提示していた。それは、
(1)善楽寺~竹林寺~高知駅~竹林寺~禅師峰寺~雪渓寺
(2)善楽寺~竹林寺~禅師峰寺~竹林寺~高知駅~雪渓寺

だった。どちらも戻るルートだった。見た感じでは(2)などはかなり長い距離を歩くように感じた。高知市内と禅師峰寺往復を往復するからだ。

そのことでボクたちは(実際はボクが文句ばかりいったのだけれど)もめた。ボクの主張は「どんだけ歩かせるんだよ」というものだった。100メートル、いや1歩でも多く歩きたくはなかった。それに往復ということは、かなり精神的な疲労度を高めるものだった。

そして竹林寺を打ち終わった時点ですでに疲れていたボクは、五台山を下りたところで、また嫌なことをホッチキスに言った。「善楽寺~高知駅の最短ルートを勧めるもんだよ。これだけ違っているんならね、5キロ以上あるだろう」なんて…。そして(2)なんてルートをどうやったら考えつくのかということも言った。

地図を見ていないボクの頭の中では、繰り返しになるのだけれど、(2)のルートが最短距離のルートよりもかなり長いように考えていた。実際には、ボクが思っていたほど長くもなくて、(1)よりは短かったのだけれど。そのことは、今、これを書いているときに調べて分かったことなのだけれど…。その「分かってこと」を黙っていたホッチキスに明日謝っとかなければ…。

結局
(最短)善楽寺~高知駅~竹林寺~禅師峰寺~雪渓寺というルートが24.82Km
(1)善楽寺~竹林寺~高知駅~竹林寺~禅師峰寺~雪渓寺31.21Km
(2)善楽寺~竹林寺~禅師峰寺~高知駅~雪渓寺が30.78Km
正確ではないが、地図ソフトの上ではこういう結果になったし、ボクは(1)のルートで高知駅へ行ったのだ。

11時40分、土佐電鉄文珠通電停近くのスズキミートにてカレーを買う。カレーの匂いに誘われて、ついつい買ってしまった。そして近くの公園で食べた。久しぶりのカレーだった。

そして高知に着いたのだけれど、これからどうなるのだろうか、と考えていた。だいたい住所だけは分かっているのだけれど、行ったこともなければ、電話番号も知らないのだから。そして地図もないし、そのために買おうとも思っていなかった。

スズキミートのカレーは美味しかったなあ

スズキミートのカレーは美味しかったなあ



車に乗った歩き遍路(14日目の3)

In : 14日目, 修行の道場, Posted by 田原笠山 on 2008/11/01

13時少し前に三十一番札所竹林寺に着いた。
高須側からの遍路道は植物園のほうを登ってゆく。暖かい日だったので、坂道で汗をかいた。五台山公園には家族連れが多く来ていた。週末はどうも歩きにくい。人も車も多くなる。

13時40分発。五台山小学校側に下りる。14時。竹林寺~禅師峰寺~高知駅~雪渓寺というルートにしようかと迷っていた。それどころか「ユリさんには悪いけれど、またあらためて…」なんて考え始めていた。「どうしようか」と迷い始めた。ホッチキスに電話する。そして、またルートのことでもめた…。

10分ほど川沿いで考える。そして高知市内へ向かった。途中サンクス五台山店で道を尋ねる。高知駅までの大まかなマッピングが頭の中に出来た。だいたいの位置関係も理解出来た。歩いた。そして何度か道を尋ねた。

はりまや橋、そこでまた道を尋ねた。親切に教えて頂いたのだけれど、細かい場所を聞いても分からなかった。そして覚えられるものでもない。「○○町○○番地○○」、とにかく町までの道が分かればよかったし、それからは着いたところで聞くほうが正確だと思った。

そして○○町の近くまで来た。16時30分。あと1時間もすれば夜が忍び寄る。ボクは少し焦っていた。近くの商店に入って尋ねた。「○○番地にはどうやっていけばいいでしょうか」と言うと、親切にもゼンリンの住宅地図を持ってきて下さって、そして探してくれた。

地図上にはユリさんの家があった。まだ少し距離があった。「ありがとうございます」とボクが言い終わらない内に「あ、送っていきますよ」と…。ボクより 10歳ほど若いその店の経営者氏は、そういうともう駐車場のほうへ歩いていた。そして店の前に軽トラを横付けした。ボクは「お願いします。ありがとございます」と言って、荷台にザックを置いた。

「別コース、これは遍路とは違うのだから車に乗っても良いよ」と自分で自分に納得させた。車に乗ったことについて、今も特にどうだということも思っていない。

ボクは、かなり弱っていた。その時は、家を探すこと、道を尋ねることだけしか考えていなかった。例えば哀しみさえも、忘れていたのかもしれない。探すということ、だけが全てだった。

竹林寺にて

竹林寺にて



踏みしめられた哀しみの夜とか(14日目の4)

In : 14日目, 修行の道場, Posted by 田原笠山 on 2008/11/01

「ボクもバイクで回ったことがあるんですよ」
と、その商店の若い経営者氏は言った。
「そうなんですか」
「はい、高知に住んでいるのですが、やはり遍路はやってみないと分からないですしね。随分いろいろな人に接待していただきました」と、バイクで回った遍路のことを話してくれた。そして「こんな札所も霊場もない場所にお遍路さんがいたもので、見たときに驚いたのですよ」と。確かに遍路道を外れてしまうと、そういう姿は非日常的になり異様なものにも写るのかもしれない。例え四国であったとしても。

ユリさんの実家に着いたのは17時少し前。経営者氏は「それじゃあ、お気を付けて」と、Uターンして今来た方向へ運転していった。ボクはその家の表札を確かめた。そしてドアベルを押した。返事は帰ってこなかった。留守のようだった。

それから、香典の用意をした。袋を買ったままだった。そうしていると、男の人が玄関に近づき、ポケットから取り出した鍵をドアに差し込んだ。そういえばどこかユリさんに似ている人だった。

「○○さんでしょうか」
「はい、そうです」
「わたし、田原と申します。先日はお手紙わざわざありがとうございました」
「ああ、あなたですか」

それから、なぜボクが遍路姿でそこに立っているのか、徳島でユリさんの死を知った、ということを手短に話した。そして、突然にお邪魔することになった非礼をわびた。

通された部屋にユリさんの位牌はあった。線香を供え、合掌した。香典も供えた。一気に何か気持ちが抜けてゆくように感じた。ちょうどジェットコースターで落ちる時のように、体液がふっと浮き上がる感じがした。

同時に涙が流れた。押し込められていた疲れも、その位置で解放されるように感じていた。言葉が見つからなかった。何を話していいのかも、分からなかった。そういう準備もしていなかった。ただ歩いていた。そして、そこがボクの目的地でもあった。

ユリさんのお兄さんも寡黙な人だった。それでも、亡くなるまでの数ヶ月のことを話してくれた。ある日突然死を宣告されること、それがどういうことかは、ボクたちには分からなかった。「哀しみ」や「苦しみ」なんて陳腐でチープな語彙を使うことは、そのまま死者を冒涜するようにも感じた。誰も分かりはしない。それが死というものの位置なのだ。

何を話したのだろうか。そして何を話さなかったのだろうか。その30分ほどの時間は、長くもあり短くもあった。ボクはそれ以上居ることが出来なかった。外に出て、誰憚られることなく感情をそのまま吐露したかった。叫びたかったし泣きたかった。それが供養だとも感じていた。

ボクは「じゃあ、ユリさん、またね」と言った。「それでは、おじゃましました」と言って、立ち上がった。そして玄関を出た。あと10分ほどの夕闇だった。ボクは歩いた。その夜のねぐらは決まっていなかった。どうでも言いことのようにも思っていた。

ボクは高知駅に向かって歩いていた。靴底まで夜だった。

高知市内

高知市内

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