Category : 涅槃の道場

そして涅槃へ(38日目の1)

In : 38日目, 涅槃の道場, Posted by 田原笠山 on 2008/11/25

戸川公園の東屋。6時に起床。雨上がりの肌寒い朝だった。山の麓ということも、そして近くに小川が流れているということかが原因なのかもしれないと考えていたのだけれど。

近くの自販機で缶コーヒーを買う。遍路始めてからは250ミリ缶を買うことが多かった。甘くて量の多いもの、ということだ。青年も起きた。そしてネコが一晩中寝袋の中にいて暖かかったということを話した。逆打ちの彼に「石鎚温泉に入って、駅に泊まると良いよ」と言った。それからパッキングを始めた。三角寺に行くというおじさんがやって来た。バイクで登るということだった。煙草を吸うとすぐに出発していった。

「じゃあね」と彼に言ってから、ボクも出発した。6時45分だった。

途中スニッカーズを食べた。その日の朝食だった。三角寺への遍路道は急登だった。直線距離で2キロだったのだけれど、1時間30分かかった。8時15分、六十五番札所三角寺到着。海抜500メートルの山の中にある寺は晩秋の風景の中、ひっそりと佇んでいた。

「遍路道、秋」雲辺寺下りにて

「遍路道、秋」雲辺寺下りにて

納経が終わりベンチで少し休憩した。自家製の金剛杖を持ったおじさん遍路がいた。「おはようございます」と言った。伊予三島市内のビジネスホテルに宿泊していたということだった。そんな話をして少しするとおじさんは出発した。

その後に外国人のバックパッカーがやってきた。納経をせずにそのまま納経所に行って墨書朱印をしてもらっていた。そのあと本堂、大師堂を見て回って写真を撮っていた。そんな彼を見ながら8時50分に出発した。

山門を出て右折。少し行ったところで、そのバックパッカーに追い抜かれた。「Hello」とだけ挨拶を交わした。半ズボン、寒くは無いのかと思ったのだけれど、速度が速い分暑いのかもしれないと思ったりした…。

9時30分、脇建設休憩所(半田休憩所?)にて休憩。ここも「宿泊禁止」と書かれていた。トイレや水道という設備がそろっていたので、寝るのにはもってこいだなあ、なんて考えていたし、たぶんそう考える人も多いのだろうと思った。9時40分出発。

坂を下って、常福寺、通称椿堂に着く。10時10分。10分後に出発した。ここから境目トンネルまではゆっくりとした登り坂になる。そして境目トンネルが県境になっていて徳島県三好市、旧池田町になる。その少し北にある曼陀峠あたりが3県、愛媛、徳島、香川の県境になる。

いよいよ涅槃の道場に入ることになる。香川に入ってからは早いと聞いていた。そして38日目という日数も残り時間の短さを直接的に教えてくれた。

これから向かう六十六番札所は徳島県に位置する。この県境越えは数時間で3県を跨ぐことになる。ルートも3つ地図に記されていた。
1つは曼陀峠道ルートで、境目トンネル手前の久保内バス停手前七田橋から左折して曼陀峠を越える。
2つめは佐野道ルートで、境目トンネル上の境目峠を越えて佐野の集落を通り池田ICの先を左折する。これは境目トンネルを通るルートもある。
3つめは境目峠道ルートで、2と同じく境目峠から曼陀トンネルに出る。

ここから曼陀峠ルートへ

ここから曼陀峠ルートへ

ボクは2のルートを取った。そして境目峠を越えないでトンネルを抜けた。佐野を遠いそして徳島自動車道をくぐり、そこから急登になった。その登りがきつかった。地図にも「標高差400メートルの登り坂」とあった。距離は2キロメートル、それを400メートル登ってゆく。どの坂よりもきつく感じた。

ひさしぶりに叫んだ。そしてここでまたパンツを落とした。最後の一枚は履いているものだけになった。自動車道路にやっとの思いでたどり着いた時には汗びっしょりだった。香川県と徳島県の県境に沿って雲辺寺までの自動車道が走っている。観音寺市側からは雲辺寺ロープウェイが運行している。ロープウェイがあるところはキツイ。その雲辺寺山は標高900メートル。たどり着いた地点も700メートル近くあった。

秋というよりも、初冬の風が吹いていた。木々の寒々しく冬枯れていた。



雲辺寺で菩薩に逢う(38日目の2)

In : 38日目, 涅槃の道場, Posted by 田原笠山 on 2008/11/25

12時に佐野道ルート、国道192号線から徳島自動車道の高速高架下にいた。それからその急な登りを終えて六十六番札所雲辺寺に着いたのは14時だった。2時間の登り。標高差400メートル、距離2キロ。とうとう涅槃の道場、最後のステージへとやって来たという事実が疲労とともにハッキリしたものになった。

雲辺寺は標高910メートルの高所にある。焼山寺標高700メートル、太龍寺520メートル、鶴林寺500メートル、岩屋寺670メートル、大宝寺560メートル、横峰寺745メートル、それらの札所よりも高いところにある。というよりも、四国八十八か所の札所の中で一番高いところにある。

蓋のある香台、種火

蓋のある香台、種火

風が強く吹いていた。急登で汗ばんだ身体が冷えてきた。と見ると、三角寺で話したおじさん遍路と外国人バックパッカーがいた。ふたりは前の晩、伊予三島の同じビジネスホテルに宿泊していたということだった。20分、いや30分、ボクより早く着いていたのだろう。どのルートを通って来たのかは訊かなかった。それでも「疲れたねえ」とおじさんが言っていた。そして「先に行ってるよ」と前後になって歩いて行った。

身支度をして本堂、大師堂と納経をした。納経所に行って驚いたことがあった。驚いたというか、そこのお姉さんがとても美人だったのだ。山奥の、辺鄙な寺で、納経所に座って墨書朱印を押しているその女性を不思議に思った。そこが彼女の居場所ではなくて、例えば本堂、千手観音菩薩の隣に座って、託宣をその口から告げることが彼女に相応しいのではないかと考えていた。「菩薩がそこにいた」と日記には書いている。

その菩薩、いや、きっと寺のお嫁さんか、娘さんなのだろう人にお礼を言ってから、出発した。14時30分だった。休憩所のところで昼食を食べた。昨日買っておいたチョコチップパンがメニューだった。15時前だったのだけれど、山はすでに夕暮れの匂いがしていた。

山を越す。今度は標高900メートルから100メートルへ一気に下降してゆく。逆打ちのほうが辛いルートだろうと思った。そしたら戸川公園で同宿した青年遍路のことを思い出した。ここを雨の中登ったと思うと、疲れてコンビニどころじゃないなあ、と考えた。途中にコンビにもなかったので、食べることもままならなかったのではないかと思った。逆打ちのほうが巡りにくいように感じた。そういうふうに出来ているのだろうと思った。

遍路道は稜線上を緩やかに上り、そして下っていた。1キロほど行ったところから左折する。急坂、落葉の絨毯の上を滑りながら歩いた。県道240線には16時少し前に着いた。それから県道を歩くと民宿青空があった。そこに泊まろうかと考えた。山越えで疲れていた。それにねぐらを探すことが億劫になっていた。

立ち止まって考えていた。そして「無料宿泊所一覧」を見た。この先に白藤大師堂というのがあることは分かっていたのだけれど、確認した。もうそこしか考えられなかった。というか、大師堂がダメなら戻ってきて民宿に泊まろうと考えていた。

16時20分、白藤大師堂到着。少し休憩していると、おばあさんがやって来て「ここにお泊りになられますか」と声をかけていただいた。「ええ、お願いしようと思っています」と答えた。そして大師堂を管理しているお宅の場所を教えていただいた。ボクは礼を言って、そのお宅へと向かった。

そして許可を頂くと、また大師堂に戻り、通夜堂へ上がり、荷物を下ろした。12畳の部屋には電気ストーブがあった。布団もあった。何よりも電気があったということが気持ちを落ち着かせた。

これも風対策なのだろう

これも風対策なのだろう。雲辺寺大師堂にて



白藤大師、通夜堂にて(38日目の3)

In : 38日目, 涅槃の道場, Posted by 田原笠山 on 2008/11/25

白藤大師の通夜堂に荷物を下ろすと、少し横になった。畳の上に身体を預けるのは久しぶりのことだった。何日ぶりだろうかと思い出していた。「清滝寺の通夜堂、津呂の遍路小屋の一畳ベッドが最後か」と呟いた。15日ぶりということを日記で確認した。日本にいて畳が懐かしくなるとは思ってもいなかった。

前にも書いたのだけれど、海外に行かなくても文明との断絶は可能で、「豊かさ」という多くの旅行者が感じる日本との差異やそれによるカルチャーショックなんてものは、四国でも可能だ。自分を探すためだけのことならば、なにも距離だけを問題にする必要は無い。時間や空間というのは、距離に比例するものでもないからだ。それがtravelでありtripなのだから。

香川には平野に起伏した綺麗な山容の山が多い

香川には平野に起伏した綺麗な山容の山が多い。岩鍋池あたりから。

その通夜堂の横は墓地だった。当たり前のことなのだけれど、そのことは気にならなくなる。17時30分、夜がボクの存在を希釈する。もう誰もここには来ないだろうと思った。個室となった通夜堂で夕食を摂った。カロリーメイトと近くの自動販売機で買ったホットレモネードがその夜のメニューだった。

結局この日は買い物をすることもなく、昨日買った食料だけで過ごした。境目トンネルを出たところに水車という食堂とコンビニのような商店があったのだけれど、佐野にあるだろうと思って食べなかったし買わなかった。ただ佐野ではみかんを頂いて、それがずいぶんと効いているように感じていた。

朝(スニッカーズ)8時30分(カロリーメイト、ジャンボソーセージ)12時(みかん2個)14時30分(チョコッチップパン)そして、夕食のカロリーメイトが1日の食事だった。

18時を過ぎたところで、通夜堂のマットの上に寝袋を広げて、その中に入った。そして遍路ノートを読み始めた。「大喜多うどん、福田かなくまうどん」というお勧めのうどん屋をチェックした。そして「琴弾回廊の風呂、瀬戸大橋健康村、簡保坂出」という温泉施設も日記にメモした。その簡保坂出は八十一番札所の近くだった。八十番という数字に終わりを感じていた。

いよいよ終盤、涅槃の朝

いよいよ終盤、涅槃の朝。大興寺にて

四国中央市柱尾戸川公園~観音寺市粟井町白藤大師堂
白藤大師通夜堂泊

(出費)
・自動販売機
缶コーヒー×3 360円
ホットレモネード 130円

(合計 490円)



神仏習合、神も仏もいる場所(39日目の1)

In : 39日目, 涅槃の道場, Posted by 田原笠山 on 2008/11/26

5時30分起床。少し前には眠りから覚めてはいたのだけれど、早く起きたといしても早く出発するつもりもなかったので、そのまま目を閉じていた。それからパッキングをして洗顔、掃除、大師堂にお参りをして出発したのが6時10分だった。まだ夜の尻尾が山裾に残っていた。

早朝の観音寺市内を遠くに見ながら、7時少し前に六十七番札所大興寺に到着。空腹。そのまま7時30分に出発。国道377号線、朝の通勤ラッシュの国道を横断して遍路道を歩く。高速道の下に8時過ぎに着く。このあたりに遍路日記で読んだ「大喜多うどん」があるはずだけれど、まだ開店前だろうと思いそのまま高架をくぐる。そう考えると空腹感が増してきた。

黄金色のイチョウの納札?

黄金色のイチョウの納札?大興寺にて

県道6号線を歩いて、9時05分サンクス観音寺坂本店に到着。買い物をして駐車場であんぱんと缶コーヒーの朝食。ブラックサンダーも食べて、飴を口に入れて出発した。

観音寺市内を少し迷いながら、そして琴弾八幡宮のところも迷って、神社からの参道が分からないまま9時40分六十八番札所神恵院(じんねいん)、そしてとなりの六十九番札所観音寺に到着。

ここはその2つの札所が並んである。納経所はひとつで、一寺二札所という珍しい札所だ。そして琴弾八幡宮、このへんが日本の宗教のややこしいところだ。明治の神仏分離がなければ、石鎚も琴平もそしてこのここもひとつの宗教施設として存在していたのだから。

「仏教には神仏による救済の思想さえない」と司馬遼太郎先生が書いているように、解脱することこそが宗教者の目的だったのだから。教義や絶対者としての神や仏が幸いにも曖昧だったので、ボクたちは八百万の神や仏を拝むことになる。そして神社で七五三を行い、キリストの前で永遠の愛を誓い、仏の前で死の儀式を執り行う。

ということは廃仏毀釈という動きの中で、血なまぐさい事件も目だって起きることなく、そうしてその間にさえ仏教が残り、遍路も続けられていたことを考えると、日本人の柔軟性という世界的にも稀な資質こそが普遍的な宗教的な価値を持つのではないかと考えた。

六十八番・神恵院 (香川県観音寺市) : 札所周辺見て歩記 : 人 遊 食 : 関西発 :(読売新聞)
開祖・日証上人が、現琴弾公園の「問答石」に座って黙想していた時、老人が船に乗って近くの海岸に到着した。上人が問うと、「我は八幡大菩薩(大分県・宇佐八幡明神)なり」。証しを見たいと聞くと、老人は海を竹林、松林に変えてしまった。驚いた上人が小舟や琴を琴弾山に引き上げて、祖となる琴弾八幡宮を創建したという。

仏陀でも空海でもなく八幡神なのだ。寺の守護神として神社が建立されるというのは、なにもここだけではなくて広くどこでも行われていた。東大寺もそうだ。習合して、そして明治に分離された。

遍路も宗教的な行為としてではなくて、ロングトレイルとして、あるいはスタンプラリーとして行われれ、そして受け入れられるということは、もしかしたら世界的に類をみないのかもしれないと考えた。目がさめて、そして歩き始めれば遍路なのだから。

その2つの札所で納経が終わってベンチで座って、今着いた歩き遍路の人と少し話した。高知の人で区切り打ちをしているということだった。彼が納経に向かうとボクも出発した。10時30分だった。

この日は7か所を打つことになる。

この日は7か所を打つことになる。



極楽浄土への路銀(39日目の2)

In : 39日目, 涅槃の道場, Posted by 田原笠山 on 2008/11/26

10時30分に観音寺を出発したボクは財田川沿いの遍路道を歩いて七十番札所本山寺に向かっていた。途中、年配のご婦人に声をかけていただいた。そして並んで川沿いの道を歩きながら、遍路のことや観音寺の昔のことなどを聞いた。

するとその女性が「今は結婚して豊田市に住んでいるんですよ」と言った。それからまたボクも豊田にいたこと、愛知に住んでいたという話になった。約30分ほどの間だったのだけれどなんだか縁のようなものを感じた。たまたま帰省していた女性と、たまたまそこを通っていた遍路に共通点がある、ということはさして珍しくもないのだろうけれど、ボクたちにとってはもうないことかもしれないと考えていた。

稲積橋のもうひとつ先の橋を越えたところに「かなくま餅福田屋」の看板が見えた。10時30分、ボクはその店に行くことをその女性に告げて別れた。白藤大師堂の遍路日記にも書いていたのだけれど、観音寺の観光案内にもその店を紹介していた。

かなくま餅うどん

かなくま餅うどん

餅屋なのかうどん屋なのか、と思いながら暖簾をくぐった。噂の餅入りうどんを注文した。味噌と醤油があるということだったのだけれど…、醤油を頼んだ。410円。そして盛り寿司も頼んだ。それは180円だった。美味しかった。四国に来て、初めてのうどんだった。どうしてこうもうどんと縁がなかったのだろうかと考えた。讃岐、香川以外の四国三県はうどん屋がすくないのかもしれないと思った。

ボクが食べていると高知の区切り遍路の男性が入ってきた。そしてボクの前に座った。少し話をした。彼も膝を痛めているようだったので、荷物の重さと膝のことなんかを話した。

彼の注文が来て、少し過ぎてボクは立ち上がった。「じゃあ、また」と挨拶をしてからレジに向かった。あんこ入りの餅を2つ注文した。そしたらお接待です、とお金を受け取らなかった。11時30分だった。

12時00分七十番札所本山寺に到着。ここで六文銭のお守りを買った。六文銭は極楽浄土への路銀として棺桶に入れ、三途の川の渡し賃にすると言われている。また長寿や魔除けに霊験があると言われている。

12時20分、その六文銭のお守りをザックに入れてから出発した。七十一番札所弥谷寺(いやだにじ)まで11キロほどの道のりだった。順路を取らずに67番、70番、68番69番、そして71番と打ったほうが3キロほど短いそうだ。

国道11号線を通った。郵便局に行きたかった。交通量の多い場所でどうも歩きにくかった。途中高瀬町内の郵便局でお金を下ろした。それからその先を左折して県道221号線の遍路道に入った。旧三野町の自動車道から遍路道になる登坂のところで、昨日会った外国人バックパッカーに追い抜かれた。ひとりだった。おじさん遍路と雲辺寺を下っていったのだけれど、きっと同じホテルに泊まったとしても出発時間が違ったのだろうと考えた。

その辺りから弥谷寺の380段の階段と、登りの道は辛いものがあった。15時20分、3時間かけて到着。嫌な時間、その日は曼荼羅寺、出釈迦寺と打ち終えて、出来れば甲山寺を打って善通寺周辺でねぐらを探したいと思っていた。

ねぐらというか、ホテルに泊まる気満々だった。ゴールが見えてきた安心感のようなものが、さらに安心感を求めていたのだろう。それにこれから続く市街地を前に、身体や白衣を洗いたかった。

弥谷寺にて

弥谷寺にて