托鉢遍路の孤独(12日目の1)

In : 12日目, 修行の道場, Posted by 田原笠山 on 2008/10/30

神峯寺への山道にて
神峯寺への道で

6時30分に起床。
パンツの洗濯で朝が始まる。ついでにバスタブにお湯を張って、入浴。なんだか妙な疲れ。緊張が少し緩んでいたの身体が怠い。重く感じる。このままもう一泊したいという気持ちになる。3500円で幸せが買える。安いものかもしれない、と考えていた。

パッキングしているとMから電話。終わるとホッチキスに電話。8時30分に食堂に行って朝食。おにぎり4個、味噌汁2杯、パン2個、コーヒー2杯、ゆずジュース2杯、で満腹状態。いよいよ動くのが面倒になる。このまま夜まで、という気持ちになる。

その気持ちを振り切ってチェックアウト。9時過ぎにホテルを出発。秋晴れの良い天気だった。毎日、これぐらいゆっくり出来たら「楽」かもしれないなあ、なんて思っていたのだけれど、そうすると、50日では回りきれないで、60日とか70日なんてかかってしまうのだろうね、なんて思っていた。

Yショップ奈半利おかもと酒店で買い物。27番札所神峯寺へは山道になるので、取りあえず昼食用の食料を調達。奈半利や安田の街並は落ち着いていて、好きな道だった。その安田を過ぎ右折して、土佐くろしお鉄道、ごめん・なはり線の高架橋を下ると神峯寺への登りになる。標高差400メートルを一気に登る道路。大型バスが通らないので、ツアーでのお遍路さんたちは、マイクロバスのタクシーに乗り換えての参拝になるとのことだった。

その登りになる集落にひとりの遍路姿の男ががいた。

「あの~、すみませんけど、水をいただけますか~」と、とても元気な声で玄関から家の中へ声をかけていた。僧なのか、プロ遍路なのか、行乞の托鉢僧なのか、あるいはボクと同じ歩き遍路なのか…。その姿には「慣れ」が表出していた。孤高さ、というものよりは、なにか狡猾さみたいな目つきに、ボクは何か嫌な感じがした。

いつも、なぜか、そういう人たちをボクは醒めた目で見ていた。修行なのかもしれないけれど、多くはその慣れているという言動に対して嫌悪感みたいなものを持っていた。四国という場所で托鉢をする、ということの「手軽さ」を感じていたし、今もそれは払拭できないでいる。

生への執着や欲への渇望などは、あって当たり前だと思う。前回のエントリーにも書いた「理趣経」に見られる人間の行動や思考を清浄なものだとする教えも間違っていないと思う。とはいえ、プロ遍路や托鉢遍路には、なにか純粋さみたいなものが、どうしてかは分からないけれど、感じられない人がほとんどだった。

「お四国さん」と遍路を呼ぶ人たちもいた。「偽遍路」や「乞食遍路」ということを話す人もいた。長い歴史の中ではいろいろなことが遍路道で起きたのだろう。ボクにとっては初めての道だし、初めての経験だったのだけれど、遍路道沿道の人々にとっては、いつもの風景なのだろうし、もう何百年も前から繰り返されている日常なのだろうと思った。

その風景は旅人にとっては「綺麗なもの」なのかもしれないけれど、例えば砂漠に住む人々のように、例えば極寒の地の人々のように、「地獄だよ」と感じる人も、感じる時も、あるのだろうと思った。

山の神
これも神峯寺への山道に飾っていた(?)のだけれど、きっと遍路へのメッセージなのかもしれないと、思った。てか、驚くよね。

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